とうとう炭労解散・・・

傘下の単組がひとつだけになっていた「日本炭鉱労働組合」(炭労)が、とうとう解散した。泣く子も黙るといわれた炭労もついに歴史を閉じた。

思えば80年代、“しのご”は国内石炭の担当記者として取材していた。当時のもっとも大きな取材対象は、北炭夕張新鉱の復活をかけた炭労の闘いだった。北炭夕張新鉱は、北炭の政商であった荻原氏が金を国庫から引き出し、北炭の存続を担ったヤマだった。特にオイルショック後、エネルギー自給を命題に石炭は注目を集めてもいたわけだ。

ところが北炭夕張新鉱は、炭鉱事故としては炭鉱史上3番目ともいわれるガス突出事故を起こす。国としては閉山、炭労はヤマの復活をかけた闘いとなったわけだ。

闘いの最終局面の舞台は霞ヶ関。通産省の門前には、当時の炭労、野呂委員長はじめ北炭夕張新鉱のヤマの男3名ほどがハンストを決行していた。国会の近くの会場では、北海道から上京してきたヤマの関係者100名ほどが決起集会を開き、長く続いてきた夕張新鉱復活へ向けた最終的な結論を決める重要局面を迎えていたのだった。おそらく誰もが「閉山」となることは分かっていた。しかし、どんなことがあっても口にはできない言葉である。

決起集会の壇上には岡田利春議員(当時、社会党の釧路選出議員)をはじめ炭労幹部、北炭夕張新鉱労組関係者が並び、喧々諤々の議論をしていたのであるが、それは堂々巡りの議論でしかなかった。つまり、どうやってヤマを復活させるかという命題に対して、解決策も手詰まりの状況だったからだ。

議論も2時間以上経過した頃だったろうか、1人のヤマの男が労組幹部に向かって怒鳴り声を上げた。
「あんたら、もう少し待て、もう少し待てというが、いつまで待てばいいのだ。黒手帳の期限だって、もうじき切れる」

外からの喧騒だけが静かに聞こえる重い沈黙だけが支配する空間。「閉山」という言葉を口にできない以上、誰もがうつむいたまま時間だけが経過していた。長い、それは長い沈黙の時間だった。

「みんな、北海道へ帰ろう……。そしてみんなで考えよう」

ポツリと力なく北炭夕張新鉱労組の委員長がつぶやいた。閉山という結論が出た瞬間、会場からは怒声も反論の声もなかった。ただ、会場にいた全員の声を押し殺してすすり泣く声だけが聞こえた。会場の雰囲気に同化していたのだろう、“しのご”も思わず涙をあふれさせていた。

その後、会場でどのような話し合いが持たれたのかは知らない。結論が出された以上、即座に通産省へ向かった。通産省内は、長期にわたった交渉に勝った(とでも言おうか)こともあり沸きかえっていた。先ほどまでもらい泣きをしてしまうような重い雰囲気の中から、にこやかな笑顔だけの通産省内に入ったとき、違和感を感じざるを得なかった。が、これは誰もが知っていたはずの結論の現実である。

この後、北炭夕張新鉱閉山、第八次石炭政策によって国内炭鉱の閉山へと進む。そして、ついに2004年11月、炭労そのものの存在も消えたのであった。

思えば、社会党(現社民党)も、この時期から退潮への道を進んだのだろう。岡田利春議員も社会党副委員長までに昇進したものの、いわゆる炭鉱票だけでは選挙に勝てないため酪農の票田を開拓し始めたが落選。国会へ復帰することはなかった。

新聞記事を読んだら岡田先生も79歳とか。当時は国会取材に便宜を図っていただいて、ありがとうございました。そして最後の北炭夕張新鉱労組の委員長、当時のメモを紛失してしまいお名前を忘れてしまって申しわけありません。炭労委員長はじめ事務局長、東京・中野区にあった炭労会館の職員の方々、当時は取材協力ありがとうございました。みなさんと新宿で飲んだときの「ヤマは涙、涙の歴史だけだよ」という言葉は忘れておりません。
2004/11/20(Sat) 19:08:24 | 社会面
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