「知的生産の技術」の再読に挑戦

岩波新書の「知的生産の技術」(梅棹忠夫著)を初めて読んだのは、遠いむかし。それからは引っ越しをするたびに失くしては買い、あるいは書籍がないから図書館から借りてきたりをなんども繰り返す。そして最終的には10年ほど前、またもや気になって購入してから失くしていない。。

 

先般、ネットで「ふたたび『知的生産の技術』を読もう」などという記事を読み、再度、張り出してきたのだ。内容は確かに古いけど、あるべきな知的行動のヒントが詰まっている。

 

単なる読書記録ではない。忘れていたこと、いまの自分に響くことなどを記載しておきたい。忘れないためにも・・・。なお、読書案内ではないので「知的生産の技術」とは何なのかという人は、そのような読書案内サイトをみてほしい。

 

「知的生産の技術」は古典となってしまった。古典となってしまったからこそ、現代に生きるヒントをつかみ、生かさなければならない。

再読ピックアップ

はじめに

そもそも”知的生産”とはなんなのか。あまりにもアバウトすぎる用語であり、こんなことを深く考えたこともなかった。

 

知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら――情報――を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ。

 

そうなのだ、何らかのことがらを他人にも理解できるようにしなければいけない。これが、知的生産の第一歩といえるのかな。

1 発見の手帳

むかしからの学習方法として、何でもかんでもノートに書いてしまえというものがあった。それと同じようなことは、この梅棹忠夫先生のチビッコ時代からあったのだろう。だから梅棹先生だってやっていたのだ。

 

なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。

 

同じようなことは、ボクも「アイデアマラソン」や「超メモ術ノート」として実行している。しかし、梅棹先生が違ったのはノートの最後に、なんと”索引”を作っていたということだ。

 

一冊をかきおえたところで、かならず索引をつくる。

 

いやはや将来のびる人というのは、チビッコ時代から素養が違う。もっとも、これが京大式カードへと発展していくわけですな。

2 ノートからカードへ

次のような一言。これが京大式カードの原点となるわけか……。新たな発見が、将来の1行10个箸いΥ岾屬鉾展していくわけだ。自分で不満に思ったことも、メモに書いておかねばならんなぁ。

 

そもそもあの大学ノートというものは、字体の簡単な英字ならいいが、画のおおい漢字をかくには、一般に線のあいだがせますぎるのではないだろうか。

 

2年ほど前から、思うところがあって自律訓練法の記録を野帳に書いている。大きすぎず小さすぎず、毎日のちょっとした記録を継続的に書いていくには、やはり野帳サイズがベストなのだ。コクヨのサイトには「100人、100の野帳」というページがあり、さまざまな使い方を紹介している。

 

梅棹先生はいう。

 

この習慣が身についていないようでは、野外科学者としては全然はなしにならない。

 

自分は研究者じゃないので、自分なりの使い方を模索するのが一番なのだ。

3 カードとそのつかいかた

いよいよ「知的生産の技術」で、世間にインパクトをいまでも与えている(?)、京大式カードの部分だ。かつては立花隆、野口悠紀雄などといった人たちも使っていたようで、比較するのもなんだが自分も使っていた。

 

だだし、やってはやめてを何度もくり返し、さっぱりモノになったことがない。面倒だよなぁ〜という記憶しか残ってない。しかし、使いこなすのに秘訣がある。

 

カードは、ただそれにないかをかいて、保存しておけばいい、というものではない。カードは、活用しなければ意味がない。カードは”くる”ものである。

 

秘訣は、この「カードは”くる”ものである」につきる。そして、この”くる”というコツにも述べている。整理整頓のように分類するのではなく、何度も読んでヒントを生み出してくることなのだろう。でも、これが実に面倒なのだった。

 

カードは分類することが重要なのではない。くりかえし”くる”ことがたいせつなのだ。

 

また梅棹先生だって面倒と感じることはあったのだろう。この心理的抵抗に打ち勝たなければ、「京大式カード」を使いこなしたことにはならない。これに打ち勝った人だけが栄冠をつかむわけか・・・。

 

カードというものは、つかいだすまでに、あるいはつかいだしてからも、かなりの心理的な抵抗があるものである。便利なことはわかっていても、なにか、いやな感じがする。

 

ノートでも同じだが、カードはとくに、長年つづけてやらなければ効果はすくない。

 
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あまり大きな声ではいえないが、これを書いているときに思い立って「京大式カード」と「カードボックス」を買ってきたのだ。何度も挫折しているので、ふたたび同じことのくり返しなるかもしれないけれど、それもいいではないかなと思う。

4 きりぬきと規格化

デジタルカメラになってから、ますます写真の整理から遠ざかっている。何もやっていない。ちょっと前はアルバムソフトも使ってみたのだが、面倒至極で何もやっていないのだ。以前はCF、いまのSDカードもカメラに入ったまんま。これではいけないと思うのだが、思うだけで行動していない。

 

だれでも写真機をもっているし、ずいぶん写真をとるくせに、とったあとは、ろくに整理もしないで、ほうりっぱなしということがおおいようだ。

 

自分で行動するとき、「千日行リフィル」というものを作って記録しながら行動している。何か行うにしても、あきらめずに長期間にわたって行うためだ。千日行だから1000日間、おおよそ3年。個人的には、それ以上となれば気力が失せる。いろいろ考える必要がありそうだな。

 

企業というものは、一年二年の短期の生産計画でうごくものかもしれないが、われわれ知的生産業のほうは、10年あるいはそれ以上の期間をかんがえてうごかなければならないのである。

5 整理と事務

会社や学校、自宅においてだって、年末あるいは長期の休み明け前などには、ちょっとは片づけるだろう。とはいうものの、書類や資料などにおいては「A4書類整理術」なる方法を取り入れたので、困ることは少ない。

 

もとの位置に「もどす」。

 

しかしだ、それ以外となるとゴチャゴチャなのだった。時にある会社を訪問すると、「整理整頓」なる注意書きがある。分かっていてもできないのが「もとの位置に『もどす』」ということですな……。

6 読書

年間での読書数が少ないのには、その原因に読書ノートへ書いているからということもある。読書ノートの方法として、あるサイトに「ノートの見開き2ページに書く。多くとも4ページまで」ということが書いてあった。A4あるいはA5のノートか、それともB5ノートかなどとむずかしいことは考えずに、ともかく書く。そのコツは次のようなことだ。

 

いろいろなケースをながめたうえで、これはほんとうにノートしておく値うちがあるとおもわれるところだけを、ノートにとるのである。

 

このような方法を採用しないと、ノート10ページにもわたって書きうつしたことがある。読むことよりも、ノートに書く方が苦痛となって、さっぱり読了とならない。こうなる原因は、自分にとって重要なところをつかんでいないからなのだった。

 

わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。

7 ペンからタイプライターへ

パソコンが仕事の主力となり、学生ですら提出書類はMicrosoftのOffice、LibreOffice、Apache Openofficeなどで作成する。筆記具を使うのは、メモの作成や備忘録的なものをノートに書くとき程度。子どもたちだって、学校へ提出するレポートなどはパソコン作成なのだ。

 

タイプライターだって、いまやレトロ趣味で売っている。使ってみるにはタイプライター本体はもちろんだが、印字するためのリボンが必要だ。このリボンがないと、タイプライターは単なる骨とう品でしかない。また、日本語を打つには、梅棹先生のように”ローマ字作戦”が必要になるわけだ。

 

どんないい発明でも、普及の方法がないのである。

 

この一言につきるわけで、アイデアマラソンをやっているとよく分かる。 :)

8 手紙

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見にくくてゴメンナサイだが、梅棹先生は右のような手紙のフォーマットを作っていたようだ。これに触発されて自分も作ったことがある。しかしながら、一度も使うことなくパソコン通信、そしてメールの時代を迎えることになる。メールであれば、とくに日づけなどはデフォルトで入っている。

 

この型がくずれているとなると、手紙の書き方というよりメールのスタイルになれていないのではないかと思ってしまう。

 

外国からの手紙は――(略)――日づけ、あて名、本文、署名と、型どおりにならんでいる。

 

この「知的生産の技術」を読む前、あるコミュニティーに所属したときのことだ。そこでは質問などはカーボン紙を使って書き、控えは必ずとっておくようにという注意があった。手書きの時代のなつかしい話だが、メールでも万が一を考え2007年以降のメールは、いまでも別サーバーにすべてストックしてある。

 

紙を二重にして、カーボン紙をはさんでうてば、手紙のできあがりと同時に、コピーもできあがるのである。

9 日記と記録

夏目漱石の本を読んでいたとき、彼は日記というより小説のアイデアなどを書いていたらしい。こちらも「アイデアマラソン」「超メモ術」の2種類のノートの、何かしら書いているわけだ。「アイデアマラソン」の考案者も、日記というより、その日の業務報告も書けと言っていた。

 

日記は、自分自身のための、業務報告なのである。

 

この「知的生産の技術」を読みなおしていた今回、タイトルの”野帳”というワードが頭に引っかかったのでAmazonで買ってみた。まだパラパラとめくっているような段階だが、本当に野帳に書きつけたメモをベースにしたとするなら、何10冊も使ったのではないだろうか。

 

東大の泉靖一教授には、そのとおりの題名の「フィールド・ノート(野帳)」(新潮社刊)という著書があるが、この人も、文化人類学者として、わかいころから野帳をもちあるき、かきつづけてこられたのだった。

10 原稿

パソコンで文書を書く場合、LibreOfficeのWriterでプロパティーを選択すると、見出しやサブタイトル、本文、引用などといったメニューが表示される。原稿を書く場合、このようなテクニックは必要なんですね。さぼることもあるので、ちょっと反省しなければ・・・。

 

よみやすくするためには、どうしても語と語のあいだをあける、いわゆる「わかちがき」を採用しなければならなくなってくるのである。

11 文章

文章を書くなら、京大式カードを読みながら”くる”と行為が必要だ。このカードをパラパラめくるながら考えるという行動を、ひとつのシステムとして行うのならKJ法というのもありだ。

 

分類するのではなく、論理的につながりがありそうだ、とおもわれる紙きれを、まとめてゆくのである。

 

このKJ法を解説した本は持っている。持っているのだが、長年のあいだに本棚のすみっこへ隠れているいるようで見つからない。なお、KJ法の解説サイトは腐るほどあるのだが、著者のお子さんだったかが「本物のKJ法ではない。本来のやり方を教える」とセミナーなどを開いているようだ。むずかしく考えれば考えるほど、普及からは離れていく。

 

KJ法については、かれの著書「発想法」(中公新書)をよまれることをおすすめする。

読みなおしの感想

時間がたつと、やはり頭に引っかかる項目は違ってくる。初めて手にとったときのポイントと、いま目にとまるポイントはかなり違う(と思う)。これが古典を読むということなのかもしれない。

 

自分は研究者ではないから、研究者がよむポイントとは違う。しかし、いまでは有名な立花隆や野口悠紀雄といった方々も若きころ、この本に書いてあることを一度はやってみている。みんな実践しているのだ。評価は、その後でいい。

 

古典として、一度は読んでみてもいいのではないか。何度も増刷されている本だから、古本もこれまた、くさるほどある。 :D

 

コメント

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  • このページを書いてから読みなおしてみると、脈絡のない部分がいっぱい。いいではないか、読みなおしてみて「書いておかねば」と思ったところだから。それにしても「名著」というものは、後から読みなおしても、発見がたくさんあるものですね。 -- しのご 2020-06-22 (月) 18:08:00

 
 


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Last-modified: 2020-06-22 (月) 18:13:38 (14d)